浄土真宗の教えが土徳として根付いてきた地域で、
聞き馴れない言葉を度々聞くことがありました。
それはお念仏の教えに出遇った喜びを、
子や孫に語り継いできた言葉であることを知り、
又その言葉は死語になりつつあることも知りました。  
宗教離れとか寺離れと言われる社会の変化の中で、
先人の真宗門徒が相続してきた「門徒ことば」から、
真実の教えに遇い「お育て」にあずかった安心と、感動を、
今私たちは、共有したいと思うのです。​​​​​​​
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門徒ことば 《お恥ずかしい あさましい》

恥しい外に向かって恥しい、誰も見ていなければ恥しくはない。
真宗門徒が言う「お恥ずかしい」は自分の内を顧みて出た言葉。

一人でいても恥しいと感じる心根で、それは自己を超えて自身をみる
 『如来の願い 本願』を抜きにしては考えられない。

如来の本願によって、如来の本願を思わないものが本願を思い、
わが身 が恥じるものへと変えられていく 変えるのではなく変えられていく。
 阿弥陀如来に願われている自身であることに心を向けた時、お恥ずかしい。
 如来の願いに照らされてはじめて見えてくる自己の姿、
罪業そ の気づきが「お恥ずかしい」であり、
如来によって知らされた事実なので 「恥かしい」に「お」がついて
「お恥ずかしい」と言いならわされてきた。

 南無阿弥陀仏 2026/6/20 常例成勝寺住職
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南無阿弥陀仏

「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来が、
私たちの救済の為に与えてくださっ た行業です。
 私が「南無阿弥陀仏」と称えることは、
私の上に阿弥陀如 来のもっとも大切な願い 
『浄土に生まれさせたい』が
実現しているとい うことを、
私の声を通して聞いているのです。

お念仏を喜んで来た先人たちの言葉を借りれば
『肝心なところを聞かせ てもらった』 
『お聞かせいただいた』と
言う言葉になるのでしょう。
私 の問いに答えたということでしょう。
私たちの問いは思い通りにはなら ない人生。
 どう生きたらよいのか。
死んだらどうなるのか。
その答えが 解らないから、お金さえあれば、
若ささえあれば、健康であればと、
違 う方向を見て生きていくことになるのでしょう。

浄土に生まれるべき身として、
今ここで願われていることを知りなさい。
 阿弥陀如来の言葉に呼び覚まされながら
生きる人生を生きなさいと願 ってくださるのです。

2026/4/18 常例 成勝寺住職

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『すべってころんで山はひっそり』種田山頭火

失敗も挫折もない人はいない。山頭火も苦難の人生であったようです。
険しい山道でも歩いていたのか、あしがもつれすべってころんだのか。
それに日頃のうっぷんも重なり、わめきたくもなる。
しかし奥深い山はその声を吸い取って、どこまでも森閑としている。
その時山頭火は学んだのでしょう。
すべってころんだりしている姿は、四苦八苦のこの世界の住人私たちです。
勝手にジタバタしているのです。
気がつけば周りの山は静かに支えてくれている。
仏さまが私たちを静かに支えてくださっているのに、
なぜかジタバタしていると。

多川俊映「心に響く99の言葉」より一部抜粋。
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《 お育ていただく 》
人は成長して重ねていく経験の中で、判断基準が作られていきます。
いつしかその判断基準で「わたし」に間違いはない
「真(まこと)」と、思いながら暮らしています。
ところが仏様の視点からすると私たちの「真」は
自分の都合でしかないこと、お互いに間違いを起こしやすく、
傷つけあう生き方をしているのが私たちだと知らされるのです。
自分中心の判断基準が、仏さまの教えを価値基準とする、
まったく別の判断基準を持つようになるのです。
真実の自分と出遭って欲しいという、
仏さまの願いに育てられていくのです。
それは、人には考えの及ばない有り難いことであり、
遇い難いことであり、尊いことでもあるので、
『お育ていただく』と喜んできました。
南無阿弥陀仏 2025/10/18 常例 住職
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《 気づかせてもらった 》
真宗門徒は何かに気がついた時
「気づいた」と言わず「気づかせてもらった」と言います。
私自身、振り返ってみますと、
仏教の教えに導いてくださる方々と出会ったことが、
不思議なご縁でもあり、
ありえない有り難い出遇いと思ってきました。
その導きの中で気づいた多くの事がありました。
善き人との出遇いも
「出遇わせてもらった」と言えるのでしょう。
主体が自分ではなく、
私の思惑や配慮 努力を超えた、
絶対的な知恵によって気づかせてもらったからであり、
出遇わせてもらったからなのです。
「おや!」と思うのも、
自分からではなかったと味わうことがあります。
南無阿弥陀仏 2025/8/16 常例 住職
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