浄土真宗の教えが土徳として根付いてきた地域で、
聞き馴れない言葉を度々聞くことがありました。
それはお念仏の教えに出遇った喜びを、
子や孫に語り継いできた言葉であることを知り、
又その言葉は死語になりつつあることも知りました。  
宗教離れとか寺離れと言われる社会の変化の中で、
先人の真宗門徒が相続してきた「門徒ことば」から、
真実の教えに遇い「お育て」にあずかった安心と、感動を、
今私たちは、共有したいと思うのです。​​​​​​​
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《 お育ていただく 》
人は成長して重ねていく経験の中で、判断基準が作られていきます。
いつしかその判断基準で「わたし」に間違いはない
「真(まこと)」と、思いながら暮らしています。
ところが仏様の視点からすると私たちの「真」は
自分の都合でしかないこと、お互いに間違いを起こしやすく、
傷つけあう生き方をしているのが私たちだと知らされるのです。
自分中心の判断基準が、仏さまの教えを価値基準とする、
まったく別の判断基準を持つようになるのです。
真実の自分と出遭って欲しいという、
仏さまの願いに育てられていくのです。
それは、人には考えの及ばない有り難いことであり、
遇い難いことであり、尊いことでもあるので、
『お育ていただく』と喜んできました。
南無阿弥陀仏 2025/10/18 常例 住職
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《 気づかせてもらった 》
真宗門徒は何かに気がついた時
「気づいた」と言わず「気づかせてもらった」と言います。
私自身、振り返ってみますと、
仏教の教えに導いてくださる方々と出会ったことが、
不思議なご縁でもあり、
ありえない有り難い出遇いと思ってきました。
その導きの中で気づいた多くの事がありました。
善き人との出遇いも
「出遇わせてもらった」と言えるのでしょう。
主体が自分ではなく、
私の思惑や配慮 努力を超えた、
絶対的な知恵によって気づかせてもらったからであり、
出遇わせてもらったからなのです。
「おや!」と思うのも、
自分からではなかったと味わうことがあります。
南無阿弥陀仏 2025/8/16 常例 住職
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